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真田幸村に学ぶビジネス戦略~大河ドラマ「真田丸」の勇士、現代のビジネスにも通じる戦略とは~

   

真田幸村に学ぶビジネス戦略~大河ドラマ「真田丸」の勇士、現代のビジネスにも通じる戦略とは~

今年は大河ドラマ「真田丸」が放送されるなど「真田幸村」が注目を集めています。戦国時代を生き抜いた真田幸村、そして真田一族の戦略から、現代のビジネスシーンにも役立つヒントを学びましょう。

真田一族の生き残り戦略とは

幸村は大坂夏の陣などの活躍で知られ、戦国武将の中でも高い人気を誇ります。また、祖父・幸隆、父・昌幸も智将として知られ、上杉謙信、武田信玄らも一目置く存在でした。もともと真田家は信州小県・真田郷(長野県上田市)の国人として武田信玄に仕えていた武家で、武田氏が滅びた後は、北条氏、上杉氏、徳川氏といった強力大名のもとを、知略で渡り歩き生き残りました。幸村は、次々と従属先を変えながらも足元を固めた父・祖父の処世術を見て育ち、さらに自分も上杉景勝、豊臣秀吉ら名だたる戦国大名のもとで多くを学んでいきました。

兄弟で別れ、家存続のため危機管理

幸村の兄・信之は徳川氏ゆかりの女性と、幸村は豊臣氏ゆかりの女性と結婚しています。秀吉と家康のどちらの時代になっても真田家が生き残っていくためでした。関ケ原の合戦の折には、父・兄・弟の三人で真田家の去就について話し合い、兄は徳川氏の東軍、父と幸村は西軍と、家族でたもとを分けた「犬伏の別れ」も有名です。これにより、豊臣が滅んだ後も真田家は生き残ります。また、関ケ原の後も兄の懇願により、敗将となった父と幸村の命も救われました。家の存続を考え、早くからリスク分析を行い、軽減処理を考えておくというリスクマネジメントはビジネスシーンにおいてもとても重要です。

小さくても大に勝つ!

幸村が活躍した関ケ原の合戦の第2次上田合戦では、関ケ原に軍を進める徳川秀忠率いる約38000の兵士に対し、真田軍はわずか3000ほどで立ち向かいました。時間稼ぎをしつつ、敵を挑発し、城の近くまでおびき寄せたところで一気に返り討ちをしたとされています。さらに、せきとめておいた川の堰(せき)を切って、秀忠軍を押し流し、秀忠を関ケ原に遅参させています。不利な条件の中でも、知恵を絞り、アイデア、技術を駆使すれば、小さくても巨大な戦力に勝つことができる――これこそが真田幸村の魅力のようです。

真田丸で実績づくり

1614年、豊臣秀頼に味方した幸村と、徳川との合戦「大坂冬の陣」が始まります。幸村は軍議で籠城ではなく、攻めていく策を主張しますが、却下されます。しかし、そこであきらめず、大坂城の南側に出城「真田丸」を築くことを提案。結果、真田丸から敵を挑発しておびき寄せたり、奇策を用いたりして、徳川側に大きな損害を与えました。提案を却下されても決してめげることなく、次の策を練り、実績や信用を築くことに成功しています。そして、家康も「信州一国を与えるから味方に」とヘッドハンティングするほど、幸村の実力は敵味方から認められるようになったのです。

わずかな勝機に全力で

もはや敗戦は免れない翌年の大坂夏の陣でも、幸村は大きく活躍。戦局を一気にひっくりかえすために、敵の大将・家康の首を取ることだけに集中しました。「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と」、後世に語り継がれる、幸村率いる真っ赤な甲冑の真田軍の猛攻は、家康を追い詰め自害を考えさせたほどといわれています。影武者を用いた戦術を使ったり、家康の居所をつぎつぎに突き止めた情報戦を駆使したり――。わずかな勝機であっても、勝つために戦略を練り続けたことから、真田十勇士の伝説も生まれたといわれています。

今も伝わる真田紐

真田紐は幸村と兄・昌幸が考案したとされる、縦に引く力が強い紐のこと。刀の下げ緒のほか日常生活でも使用されていました。この真田紐を全国各地に行商させ、生計を支えたり諸国の動静を探っていたとも伝えられています。

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